お寺の子

昨夜のクローズアップ現代 『岐路に立つお寺~問われる宗教の役割』 は見れていないのですが・・・・・

私は、とある小さなお寺の三女として生まれました。
普通に考えると、とっても罰当たりなことですが、墓地でかくれんぼをし、お賽銭箱で跳び箱の練習をし^^;雨の日には本堂でバドミントンをし、
そこらじゅうの草を薬に見立ててすりつぶしては、門と灯篭付きのよそ様の立派なお墓で病院ごっこをする、という中でおおきくなりました。
でも、その分!?毎月の御詠歌さんの集まりにお茶をせっせと運んだり、檀家さんと一緒に仏具を磨いたり、
おばちゃんたちに、「まぁえらいねぇ」を言って欲しさに、幼い私はかいがいしくお手伝いをしていた記憶があります。
今思えば私が幼かった頃、お客さんのいない日はないくらいに、日中はいつも誰か他人の人がいた気がします。
檀家さんでもないのにしょっちゅう縁側でお茶を飲んでいた「村上のおっちゃん」はいまだに誰だったのかどういう関係だったのか・・・
奥の間にお客さんが来るときは、ちょっと深刻な雰囲気。
何、何、誰、誰?と聞きたがりの私に、「子どもは関係ありません。」って、注意されてたっけ。
親戚のおばちゃんが、「私ら、子どもの時は石段を上がる人が見えたらすぐに、お湯!ってお湯を沸かしに立たされたもんよ。」
それから月日は流れ、お湯は薪をくべて沸かさなくてもすぐにコンロで沸かせるようになり、賢いポットが次々と登場して、今ではやかんも要らなくなり
いつでも瞬時にお茶は出せるようになったというのに、肝心のお客様は
どこへやら・・・・・・
仏具磨く時のあの白い薬のあのにおい、好きだったんですけどね、もう仏具を磨く必要もありません。
特殊な塗装をすればほぼ永久的にキレイ。なんと楽チンになったことでしょう。
でもね、本堂で響く檀家さんたちのあの声は、もう聞こえません。皆でお道具を大事にするという意識は、間違いなく薄れていきますよね。
時は流れ、いろんな規格そのものが変わります。意識も変わります。代も変わります。
正解はありません。今の結果はわかっても、明日の結果はわかりません。
今日の評価は素晴らしくても、1年後の評価は真反対かもしれません。
10年後はまた違ってくるのでしょう。

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