神様仏様ご先祖様

毎月一日にお詣りしている月次祭。

毎月毎月ほぼ同じ方々が揃うわけですが、正直私たちが最年少で年齢化は進む一方です。

七五三の時期には七五三のお参りの人、土日に重なると百花のお参りの人なども加わることもあります。

厄払いの方や、病や手術の願掛けの方もご一緒することもあります。

今日もおそらくこれからの闘病の為の願掛けか、もしかしたらお礼参りか、勝手な憶測にすぎませんが、そのような状況ではないかと見受けられる方がいらっしゃいました。

帰り道、多分そうだろうね、なんて話に主人となった時に、「なってからお参りしても遅いんじゃ。」とぼそり一言。

そんなこと言わなくても、と一瞬思いましたけど、でも確かにそうだな、と思い直しました。

今日の方がどうこうではなく、多くの人は何か起きてから、神様仏様にみんな手を合わせます。ご先祖様にすがります。

ごくごく当たり前に見られる光景です。責められるような行為でも何でも有りません。すがれるものにはなんであってもすがりたいし、手を合わせてすべてに祈りたい気持ちになるのは当然です。

私だって、受験前に学問の神様がいらっしゃる神社と聞けば素通りなんかせずに手を合わせるし、お賽銭をいつもより多めに入れたりしちゃってます。

目の調子が悪い時に、ここは目に効く仏様なんですって、って聞けば即手を合わせます。

大抵の人は、そういうものです。

そうではなく常日頃から、手を合わせ、自ら進んで境内をお掃除をしたりお花をお供えしたり、前掛けをお地蔵様に縫ったり、そういう人を信心深い人だ、と感心したり誉めたりします。

でも、いろんな意味において本来はそういう姿が当たり前で、神社やお寺との関係もそうやって成り立っていたのでしょうね。

私なんかがエラそうなことが言える立場でも、神様仏様に胸を張って言えるほどの信心深さがあるわけでもありません。

でも、やはり今の私達、不平不満が先に立ったり、忙しさを理由に目に見えない大事なコトを後回しにしすぎているような気がします。

人間って弱いものですからね、そうならなきゃ気が付かないことだらけなんですけどね、でもでもやっぱり日頃から手を合わせ、神様仏様、ご先祖様に感謝しなくちゃいけないんですよ、ホントは。

それらを言葉だけで示すのではなく、これからを担う子どもたちに、実際の姿で示していかないと本当にこれからの葬儀葬祭も、供養もあっというまに一部のカタチだけが残って本質の部分が無くなってしまうのではないかと

そんな危機感を、今日改めて感じたのでした。










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